1978年、ペンシルベニア州ピッツバーグからニューヨークに移り、スクール・オブ・ビジュアル・アーツに入学したヘリングは、絵画だけでなく映像やインスタレーションなど多様な美術表現を学びながら、美術館や画廊といった従来の展示空間から公共空間でアートを展開する方法を模索しました。中でも、人種や階級、性別、職業に関係なく最も多くの人が利用する地下鉄に注目。「ここに描けばあらゆる人が自分の作品を見てくれる」と、地下鉄駅構内の空いている広告板に貼られた黒い紙にチョークでドローイングをし、そのシンプルに素早く描かれた光り輝く赤ん坊、吠える犬、光線を出す宇宙船は多くのニューヨーカーの心と記憶に入り込みました。
NYから本展のために日本初公開のサブウェイ・ドローイング5点の出品が決定しました!貴重な機会をお見逃しなく!!
HIVの蔓延は社会に暗い影を落としはじめていましたが、ペンシルベニア州ピッツバーグの田舎から出てきたヘリングにとって、ニューヨークはゲイカルチャーも華やいでいる刺激的な場所でした。混沌と希望に溢れるこの街で解放されたヘリングは、生の喜びと死への恐怖を背負い、約10年間という限られた時間に自らのエネルギーを注ぎ込んでいきます。
ジャン・デュビュッフェ、ピエール・アレシンスキー、ウィリアム・バロウズ、そしてアーティストの独立性を主張したロバート・ヘンライのマニフェスト『アート・スピリット』に影響を受け、独自の表現を推し進める中で、アフリカの芸術から着想を得た表現なども確立していきます。
「人生は儚い。それは生と死の間の細い線です。私はその細い線の上を歩いています。ニューヨークに住んで、飛行機で飛び回っているけれど、毎日死と向き合っているのです」
―1986年7月7日
米国経済不況下80年代のニューヨークは、現在以上に犯罪が多発する都市として知られており、ドラッグや暴力、貧困が蔓延していました。それでもクラブ・シーンは盛り上がり、ストリートアートが隆盛を極めるなど街もカルチャーも人々もパワーに溢れていました。アンディ・ウォーホルやマドンナ、そしてバスキアの作品もそのような状況下から誕生しています。作家のウィリアム・S・バロウズも詩人で評論家のアレン・ギンズバーグも、トップモデルも著名人もミュージシャンも、みんなクラブに通っており、若いアーティストは画廊やシアター以外の場所で才能を試すことに必死でした。
特にパラダイス・ガラージは人種の坩堝(るつぼ)で、ダンスも、DJの神様といわれたラリー・レヴァンのプレイも、ヘリングにとって最高のクラブであり、踊りと音楽に酔いしれるだけではなく、創作のアイデアが湧き出る神聖な場所でもありました。そのように文化が混ざり合う時代の中で、ヘリングはポップアートだけでなく、舞台芸術や広告、音楽などと関わりながら制作の場を広げていくことになります。
キース・ヘリングは大衆にダイレクトにメッセージを伝えるため、ポスターという媒体を使いました。題材は核放棄、反アパルトヘイト、エイズ予防や、性的マイノリティのカミングアウトを祝福する「ナショナル・カミングアウト・デー」などの社会的なものから、アブソルート・ウォッカやスウォッチなどとのコラボレーション広告といった商業的なものまで、100点以上にも及びます。
中でも、社会へのメッセージを発信したポスターは数多く、ヘリングが初めて制作したポスターは、1982年に自費で2万部を印刷した核放棄のためのポスターであり、セントラル・パークで行われた核兵器と軍拡競争に反対する大規模デモで無料配布されました。アートの力は人の心を動かし世界を平和にできるものだと信じていたヘリングは、ポスターだけでなく子どもたちとのワークショップや壁画など多くの媒体を使ってメッセージを送り続けました。
アートを富裕層にだけではなく大衆に届けたいと考えたヘリングは、ストリートや地下鉄での活動に始まり、自身がデザインした商品を販売するポップショップといったアート活動を通して彼らとのコミュニケーションを可能にしてきました。本章のメインとなる《赤と青の物語》は、絵画の連なりから1つのストーリーを想像する、子どもたちだけでなく大人にも訴えかける視覚言語が用いられた、代表的な作品です。
また、赤、黄、青といった原色を使い、平面の形を立体に立ち上げた彫刻作品はシンプルで万人とコミュニケーションできるアートといえます。ヘリングは彫刻や壁画などを世界の都市数十ヶ所でパブリックアートとして制作しています。そのほとんどが子どもたちのための慈善活動でした。数々の絵本が出版され、今でも親しまれているなど、ヘリングが発信したアートは大衆に届けられ続けています。
17点による《ブループリント・ドローイング》は「ニューヨークでのはじまりを啓示するタイムカプセル」だとヘリングはテキストに残しています。一点一点には解説は付けられていませんが、資本主義に翻弄され不平等さや争いがはびこる社会や、テクノロジーが人間を支配するような未来がモノクロームでコミックのように淡々と描写されています。ヘリングの多くの作品同様、ここでも鑑賞者が作品と向き合い、個々の現実に照らし合わせ、意味を考えることを作品が促しているのです。
最後の個展に出品された大作《無題》も、《イコンズ》に描かれた世界中で愛されている光輝く赤ん坊、通称ラディアント・ベイビーも、鑑賞する人の数だけ意味が生まれていきます。現在を未来として描き、未来を現在として描いたヘリングの思いは、没後30年以上経った今でも歴史と共に巡っています。
日本に対して特別な想いを抱いていたヘリングが初来日したのは、今から40余年前の1983年。東洋思想や書を代表する文化は以前よりヘリングに影響を与えており、来日の際は扇子や掛け軸など日本特有の道具に墨を用いたドローイングを制作しました。また、当時バブルに沸いていた東京は、ヘリングにとって未来都市と伝統が融合されたエキゾチックな街でした。1987年には東京都多摩市のパルテノン多摩で約500人の子どもたちと共同制作をし、1988年にはヘリングがデザインしたグッズを販売するポップショップ東京を青山にオープンし、大きな話題を呼びました。ポップショップはTシャツ、缶バッジ、ポスター、マグネット、おもちゃなどが販売され、誰もがアートにアクセスできる新しいネットワークであり、ポップショップ東京では日本文化を融合させたアイテムが多数生まれました。本展では、茶碗や扇子など代表的なものを紹介します。また、同年には多忙なスケジュールの中、広島を訪問。広島サンプラザホールで行われたコンサート「平和がいいに決まってる!!」のポスターを制作しています。
ポップショップ東京で販売された扇子 1988年 22.7×39×2.4 cm
中村キース・ヘリング美術館蔵
Keith Haring Artwork ©Keith Haring Foundation
ポップショップ東京のため、京都の老舗の京扇子専門店に依頼して制作されました。五人が腕を絡ませている躍動的なイメージが黒のラインだけで描かれており、開閉すると人物が動き、踊っているように見えます。ヘリングは扇子があおぐだけではなく、儀礼や芸能で用いられることも理解した上で、伝統工芸品の独特な美を自分のアートと融合させています。
表参道にて 1988年 Photo by ©Akira Kishida